Quarterly Monday vol.20


 
発行責任者:長島 輝雄

"Quarterly Monday" vol.20
(2003年1月4日号)
Mondaynight Jazz Orchestra メールマガジン
(1月4月7月10月初旬の年4回発行 次回2003年4月初旬発行予定)
bcc配信先:515名様宛(1月4日現在)
発行責任者:長島 輝雄(Manager兼 MC兼 Bass少々)

 

●目次●
 

 

(1) はじめに:明けましておめでとうございます

 
マンデイナイト・ジャズ・オーケストラ(MJO)のメールマガジン「Quarterly Monday」をご覧頂いている皆様、明けましておめでとうございます。
世の中、今ひとつ盛り上がりませんが、皆様いかがお過ごしでしょうか?今年こそは良い年になりますよう、心から祈らずにはいられません。

さて、昨年も私達MJOへ格別のご厚情、誠にありがとうございました。今までメンバー変更の少なかった私たちにとって、昨年はメンバー3人も一時に交代するという非常に厳しい状況でした。

おかげさまで、新鮮で強力なメンバー2人(P.井上英果、4th Ts.江村幸博)と約25年振りに復帰した創立当時のメンバー1人(3rd As.細字慶一)の参加により、ホッと一安心。特にサックスセクションは、新人2人はもちろん、今までの3rd As.鈴木成章が1st As.に変わったため、セクションメンバー5人のうち3人が慣れないパートに挑戦するという状態でしたが、各メンバーの努力も(ハッタリも?)あり、後半は今まで以上に充実した活動が出来ました。

1974年に結成した私達は、今年のコンサートが30回目の節目となります。結成30周年の記念CD作成も予定しています。

今後ともMJOへの皆様の変わらないご支援を心からお願いいたします。
 

(2) トピックス:昨年のリサイタル、ありがとうございました

 
昨年11月30日の第29回リサイタル「My Feather Music」にお越し頂いたたくさんの皆様、本当にありがとうございました。

今回のゲスト、Ts.高橋達也さんの深く暖かな、しかも輝くような音色でご参加いただいた2部後半の演奏は、お客様も私達も心の底から楽しませていただきました。
おまけに高橋さんとのおしゃべりには、行田よしおさん・白井京子さんが飛び入りでお付き合い頂き、お客様もビックリでした。

当日頂いたアンケートは、おかげさまで131人の皆様にご協力いただきました。ありがとうございました。
集計結果詳細は、例年どおりホームページでご覧いただけますが、各項目の平均評点(5点満点)・曲別支持率は次のとおりです。

1.
リサイタルの総合評価
=
4.7
(01年:4.8 00年:4.5)
2.
演奏の評価(新設)
=
4.5
 
3.
司会の評価
=
4.2
(01年:4.3 00年:4.1)
4.
会場の評価
=
4.3
(01年:4.2 00年:4.1)
5.
音響の評価
=
3.9
(01年:4.3 00年:4.1)
6.
照明の評価
=
4.1
(01年:4.1 00年:3.9)
7.
「印象に残った曲」の支持率ベスト7
=
第1位:
Mercy, Mercy, Mercy =
14.1 %
 
 
 
第2位:
Stardust =
12.9 %
 
 
 
第3位:
Moonlight Serenade =
10.4 %
 
 
 
 
Jumpin’ At The Woodside =
10.4 %
 
 
 
第5位:
Moanin' =
8.6 %
 
 
 
第6位:
見上げてごらん夜の星を =
7.4 %
 
 
 
第7位:
My Feather Bed =
4.9 %

頂いたコメントは「皆さんからの声」で幾つかご紹介いたしますが、 その他のコメントも今後の活動に活かしていきたいと思います。
本当にご協力ありがとうございました。
 
(3) メンバー紹介:Drums・平野嘉昭の巻

 
平野嘉昭のタイコ人生

中学1年生でスティクを持って以来、タイコとの付き合いは37年になります。その間、多くの人々に支えていただきました。その方々への感謝を込め、私のタイコ、否人生そのものを支えていただいた方々の思い出を織りまぜながら、語っていきたいと思います。最後まで気をしっかりもって、ご精読ください。

《木琴で始まった音楽人生=幼稚園時代》
幼稚園は、東急大井町線下神明にある「日本音楽学校付属幼稚園」に通いました。当時、自宅は大井町にありましたので、大井町から電車に乗って1人で通いました。落とさないよう、ひもでくくった定期をもち、ある時は当時流行った「フラフープ」を肩にかけて通っていたことを思い出します。
幼稚園は音楽学校の付属でしたので、音楽の授業があり、木琴をよく練習しました。一番、練習したのは「おもちゃの兵隊」という曲でした。携帯式の木琴をビニールケースに入れて雨の日も風の日も電車に揺られて通ったものです。今思うと、これが打楽器に出会った一番最初の時でした。
今も時々「タイコをやめてビブラフォンでもやろうかな?ジャズビブラフォンだったら、出口辰治さんが教えてくれるだろうし 」なんてことを考えたりもします。でも楽器も高そうだし、3台のドラムセットを自宅に置いている今でさえ、女房から文句がでている以上、量のはる楽器の購入は無理そうです。

《音楽の楽しさを教えていただいた北川菅雄先生=小学校時代》
小学校も地元ではなく、家から歩けば30分以上かかる小学校でした。「品川区立大井第一小学校」という当時は区内の名門小学校でした。所謂「越境入学」というものです。クラスの名前もとても古風で、松組、竹組、梅組などといった名称で、私の上級はちょうどベビーブームであったため、クラスも多く、星組、雪組などまるで宝塚歌劇団のようなクラスもありました。
小学校の3、4年の2年間お世話になった担任の先生は北川菅雄先生でした。
北川先生はとてもユニークな先生でした。音楽が好きで、先生のオルガンの伴奏でロシア民謡をクラスの仲間で歌ったり、クラシックの名曲を聞かせてくれたり、本当に楽しい授業でした。授業中にもかかわらず、「平野!落語をやれ!」といわれて時々、教壇を高座にして、漫画雑誌で覚えた落語を語った思いでもあります。そして、私が今でも鮮明に記憶するのは、コントラバスに触ったことでした。
ある日突然、北川先生は教室にコントラバスを持込んできたのです。横浜国大でジャズをやっている弟さんの楽器だそうで、クラス全員にコントラバスを弾かせてくれました。勿論、弓ではなく、ジャズベースのように指で弾かせてもらいました。とても感激したことを思い出します。一番最初にジャズに触れたのがこの時だったかもしれません。
また、先生は、鼓笛隊も始めました。保護者会の時に全部の親を説得し、寄付を集め、鼓笛隊を編成したのです。私は、この時、「小太鼓をやりたいなー」と思っていました。でもその気持ちは先生には届かず、笛を担当しました。この時の悔しさが今の自分に繋がっているようにも思います。後にその思いを同窓会の席で先生に話ししたら「ごめんね。平野君」という言葉が先生から帰ってきました。長年の悔しさがこれで報われたような気がしました。
縁あって、この同窓会を機に、北川先生は毎年奥様とともにMONDAYNIGHT JAZZ ORCH.のリサイタルに毎年足を運んでくださっています。そして、今年の2月には、先生からのご紹介で同じ品川区立の杜松小学校でMONDAYNIGHT JAZZ ORCH.にとって初めてのスクールコンサートを実現することができました。先生に恩返しができたような気分でした。子どもたちも喜んでくれ、熱いメッセージを作文にして送ってくれました。楽器紹介では、子供達にいろんな楽器を触ってもらいました。子供達の中からこれをきっかけに1人でもプロのジャズマンが出て来てくれたら、と願わずにはいられません。

《タイコの基礎を教えていただいた勝俣格さん=中学校時代》
中学校も越境入学の延長で、大井第一小学校の学区の「品川区立伊藤中学校」に入学しました。この中学校の卒業生で有名なのは、歌手の郷ひろみ君です。郷ひろみ、と言えば、マンディのギターリスト、青木文尚君の彼の物まねはぴか一です。機会があったら聞いてみてください。
クラブは「ブラスバンド部」でした。今ブラスバンドというと、部員のほとんどは女の子だそうですが、当時は「女人禁制」のクラブでした。最初は、フルートを志望しましたが、人数が多いため、パーカッションに移りました。これが私の人生にとって重要な選択でした。1年上の先輩に基礎を教わり、1年生の時はシンバルを担当しました。その1年生の時に出会ったのが、現在、「立正佼成会」のウィンド・アンサンブルで活躍されている、勝俣格さんでした。
東京芸術大学を志望されていた勝俣さんには、よく自宅でレッスンをしていただきました。タイコの基礎はこの時、身につけたように思います。
そして、中学時代はジャズと出会った時代でもありました。
まず、この時代は「エレキブーム」でした。だれもが夢中になったのが、ベンチャーズであり、グループサウンズです。私も、仲間に誘われ、エレキグループを結成しました。日曜日になると、医者の息子にドラムセットを借りて、メンバーが我が家に集まります。そして、雨戸を閉めてその上に毛布をはり、近所の家を1軒1軒挨拶して、いざ練習です。「思いでの渚」など主にワイルドワンズの曲が多かったように記憶しています。
この時期には、毎週日曜日に「バン・ミュージック・ブレイク」というテレビ番組がありました。アメリカのバークリー音楽院から帰ってきた渡辺貞夫がジャズを演奏していました。また、NHKでは、「世界の音楽」という番組があって、カウントベイシーなんかもこの番組でみることができました。たしか、ソニー・ペインもこの番組で初めてみました。
この「世界の音楽」で衝撃をうけたのが、「バディリッチ・ビッグバンド」でした。今でもその様子は鮮明に覚えています。あの名曲「ウエスト・サイド・ストーリー組曲」でのリッチのロングソロは忘れることはできません。物凄い早さのシングル・ノート、そしてそれに比例するかのようにしたたり落ちる汗。当時の中学生は完璧にノックアウトです。
この時、自分に誓いました。「大学に入って、ビッグバンドのドラマーになる!」と。

《音楽を教えていただいた藤田修作さん=高校時代》
高校は、自宅から徒歩で15分の「東京都立八潮高校」でした。高校になって初めて徒歩通学ができました。普通の人と逆ですね。1年下の学年にラビット関根、そしてはるか後輩に、薬師丸ひろ子がいます。
入ったクラブは「管弦楽」でした。また、タイコをやろうと思いましたが、ティンパニもなく、またクラシックの場合はほとんどパーカッションの出番がないため、チェロを担当しました。初めて触るチェロだったのですが、1年生の秋の文化祭には、ベートーベンの第5交響曲「運命」を全楽章演奏しました。楽器を初めて触って、半年でベートーベンの交響曲を全楽章演奏したなんて普通の常識では考えられないことです。2年生の時は、シューベルトの「未完成」をやりました。これも今思うと、無謀です。
平行して、「品川区民管弦楽団」にも所属しました。指揮者は、かつてNHK交響楽団の主席バイオリニストの日比野愛次さんでした。1990年頃に「横浜市立大倉山記念館」の館長をしていた時に、この日比野さんに再会をしましたが、しばらくして他界されました。この管弦楽部に所属していた時に、可愛がっていただいたのが、中学・高校のOBであった、藤田修作さんでした。当時は、東京芸術大学の学生でした。現在は、ドイツのオーケストラで主席のホルン奏者として活躍されています。
一人っ子の私にとっては、兄貴のような存在でした。「お前はチェロの音程がやばいから、俺のところに来てレッスンを受けろ!」と言われ、毎週1回、「聴音」などのレッスンをしていただきました。現在、NHK交響楽団のフルート奏者として活躍されている細川順三さんも生徒のひとりでした。音楽だけでなく、Hなことや音楽に対する考え方も教えていただきました。また、大晦日にすき焼きパーティーに呼ばれ、酒を覚えたのも藤田さんのご指導の賜のひとつです。
高校時代は、クラシックをやりながらもジャズにもますます傾倒していった時代です。同じ学年の仲間にもジャズ好きの奴がいて、アルトサックスの設楽圭司君(のちにプロバンド「スカイライナース」のメンバーとして活躍)なんかとバンドを組んでいました。ボサノバや、ハービーマンの曲を文化祭などで演奏していました。また、下級生の女の子をスカウトして、自分のコンボを作ったりしました。一方で、新宿の「ピットイン」や銀座の「ジャンク」にも行って、日本人ジャズマンの演奏にも触れていました。「ジャンク」には、下級生のジャズ好きの女の子と一緒に、菊池成章を聞きにいったりしました。また、「ピットイン」では、今や伝説のドラマー白木秀男のトリオを聞きました。沖至のトランペットも管弦楽の先輩を「保護者」にして聞きに行きました。そして、有楽町のサンケイホールには、オスカー・ピーターソンのバンドを聞きにいきました。今は亡き、サム・ジョーンズのベース、そして名手ボビー・ダーハムのドラムでしたが、とてもかっこよくて、今でもボビー・ダーハムのロングドラムソロの凄まじさは、強烈な記憶に残っています。コンサート終了後は、トリオ全員に握手してもらいました。印象的だったのは、ピーターソンの手でした。まさに華麗なピアノプレイに相応しい、「これがピアニストの手だ」といった美しい手だったのです。そういえば、つい最近、このメンバーでのCDを手に入れました。
また、少女歌劇で有名な宝塚公演にも同じクラスの女の子ともいきました。これが初めてのデートだったのですが、一緒に行った女の子は高校を中退してその後、宝塚歌劇団に入ってしまいました。
また、母親とは2年連続して、「クレイジーキャッツ」の公演を東京宝塚劇場に見にいきました。バックのビッグバンドのドラマーばかりをじーと見ていたことを記憶しています。
母親と言えば、今でも感謝していることがあります。高校2年の時に、パートタイマーで稼いだお金で、ドラムセットを買ってくれたことです。本当に嬉しかった。自分の部屋にドラムセットを置き、赤のセロハンを電球に巻き、アート・ブレイキーやジミー・スミスのジャズを流してそれに合わせて、タイコを叩くようなことをいつもしていました。まるで、自分が「ピットイン」に出演しているジャズドラマーになったような気分でした。因にドラムセットの色は赤でした。ちょうど「スゥイング・ジャーナル」に出ていた、エルビン・ジョーンズが滝のような汗をかいて、ものすごい形相で叩いているタイコが赤で、その写真が強烈だったからです。
高校3年から大学浪人時代、大学時代は、同級生の中川泰行君といつも我が家で毎日、ボーカル曲を聞いていました。エラ・フィッツジェラルドやカーメン・マクレーなどの大御所を聞いていました。今でも歌伴のドラムが好きなのは、この時に培われたのかもしれません。

《憧れのビッグバンドに=大学時代》
1年の浪人を経て、立教大学社会学部社会学科に1972年に入学しました。勿論、大学に入ったら、ビッグバンドと思っていたのですが、ビッグバンドのドラマーはたったひとりのパートです。入学してすぐに演奏できないのはつまらないと思い、ジャズバンドがいくつかある軽音楽部に入りました。
勿論、1年生ですから、軽音楽部でも最初は先輩の楽器を運ぶボーヤでした。その当時の先輩、高村さんにはジャズドラムの基礎を教わりましたが、なかなか上手くならず、この高村さんからは叱られぱなしでした。この高村さんも現在、MONDAYのリサイタルに顔をだしてくれます。実は、わがバンドの4番トランペットの照木さんと都立深沢高校の同級生だったのです。
ほかにもいろいろな先輩がいて、現在も西荻窪でジャズスポット「アケタのお店」を経営し、またご自身もプロのピアニストである、明田川荘司さんも先輩のひとりで、明田川さんの誘いで、渋谷の「BYG」や「ピットイン ティールーム」にも出演する機会を得ました。これも嬉しかった思いでの一つです。憧れのピットインの出演者として、表の黒板に自分の名前がのることが高校時代の憧れだった訳ですから。
大学3年になって、ビッグバンドのアルトサックス奏者の細字慶一君(現在、マンディの3番アルト)が当時私がレギュラーでやっていたコンボにやってきました。そして、彼の故郷である石川県の金沢市に一緒に演奏旅行に行きました。演奏旅行と行っても、結婚式の仕事でした。でもこの旅行も楽しいものでした。何よりの収穫は、ビブラフォンの名手、出口辰治さんと出会ったことです。彼は当時、金沢大学の学生でしたが、一緒に市内のライブハウスで演奏してその上手さにびっくりしました。現在も、自宅近くのライブハウスでお会いしますが、すばらしいプレイヤーです。特におしゃべりが上手で、そのパフォーマンスぶりは最高です。ジャズ界のお話しから宇宙の話まで話題も豊富で、いつもお客さんを楽しませてくれます。いつかMONDAYのコンサートやライブに客演していただこうと密かにそのチャンスを伺っているところです。
金沢の演奏旅行が終って、細字君からビッグバンドに誘われました。勿論、レギュラーとしてでした。コンボでの演奏も今ひとつ冴えず、また長島輝雄(現在マンデーのベース)さんという安定したベースマンがビッグバンドいたため、軽音楽部を思いきって退部し、新天地をビッグバンドに求めました。
ビッグバンドは本来私がやりたかったジャズでしたし、またビッグバンドの水も自分にあっていたように思います。その当時は、私の理想のドラマーはビッグバンドならバディ・リッチでした。彼のレコードは、高校時代から毎日のように聞いていましたので、なるべく派手に、とにかく目立つようなドラミングをめざしました。
大学の2年間では、沢たまきさんのバックをつとめたことがとてもよい思い出です。プロの歌手の伴奏をつとめることはとてもうれしかったことでした。親にねだって、コンサートで着る黒のジャケットを買ってもらいました。歌の伴奏をかっこよくプレイするドラマーに憧れていただけに、彼女との共演は長年の夢を実現させる出来事のひとつとなりました。彼女と共演して印象的だった一番の曲は「What a little moonlight can do」でした。この曲は、未だに好きなボーカル曲で、今も歌の伴奏させてもらっている、ボーカルの山ノ内美和さんとも時々演奏する曲です。
兄弟クラブとして交流している「同志社大学 サード・ハード・オーケストラ」とのおつきあいも楽しい思い出です。未だに、彼等とはOB同士で、4年に1回豊橋で同窓会を催しています。とにかく、1回使った会場は次回には使わせてもらえないぐらいの騒ぎ方をします。
同志社のドラマー水島英幸さんは、その当時の憧れでした。私同様に小柄ながらパワーのあるドラミングはとても魅力的でした。卒業後は長い間ドラムから遠ざかっていましたが、最近再び始められたとのこと。また二人で演奏できることを楽しみにしています。なお、大学4年の時にジーンズメーカーが主催する「リーバイス・ビッグバンド・コンテスト」で優秀ソロイスト賞をいただきました。
大学の最後の練習の時は、いつもは後輩に楽器のかたずけをたのむところを、ひとりでかたずけ、2年間世話になったドラムに感謝しました。同時にもう明日からはドラムを演奏することはないだろうと、思っていました。
この当時は、ジャズだけではなく、歌舞伎にも興味をもっていた時代でした。浪人時代から憧れていた、故・武智鉄二氏に指導を受け、卒業後は役者ではなく、評論家かプロデューサーになるための勉強をしていました。大学2年の時には、読売ホールで近松の「心中天の網島」の公演があり、藝者の役をもらいました。女形をやるため、東武東上線の上板橋の日本舞踊のお稽古によく通ったものです。

《ジャズドラムを教えていただいた中村吉夫さん=社会人時代》
一旦ドラムは叩くまいと決意しながらも、卒業して先輩の長島さんが所属しているビッグバンドがあると聞いて、一度見にいったのが、私のドラム人生のセカンドステージの始まりでした。大学も卒業し、同時にドラムも卒業したつもりが、このバンドのお陰でドラム魂を再び叩きおこす結果となりました。
このバンドとは、現在のMONDAYNIGHT JAZZ ORCH.です。当初はバンドの名前もなく、バンドマスターの名前をとって「小林バンド」と言われていました。それが現在の名前になったのは私の提案した名前が採用されたからと記憶しています。当初は、小池隆さんという中央大学出身の上手なドラマーがレギュラーだったのですが、バンドをもうひとつ掛け持ちしていたので、小池さんがドラムのポストを私に譲ってくださったのです。これが私とMONDAYNAIGHT JAZZ ORCH.との出会いでした。
入部から6年間ぐらいは、周りのメンバーからいろいろな注文をもらいました。あまり上手でなかったので、いつレギュラーを降ろされるか、が心配の種でした。心配というよりは恐怖に近かったように思います。その心配が少し解消されるようになったのは、我が師、中村吉夫さんとの出会いでした。
中村吉夫さんは当時、名門「原信夫とシャープス アンド フラッツ」の看板ドラマーでした。東京都ビッグバンド連盟のコンサートの時に来てアドバイスしていただき、都連のドラマーのレッスンをお願いするようになりました。
中村さんから教えていただいた事で一番役にたったことは「肩の力を抜け」という単純なことでした。中村さんからはジャズドラマーとしての基本的な考え方を教わったように思います。しかし、この基本的なことで、私自身変わる事ができました。中村さんに言わせると、「素人は勘違いが多い」ということです。
中村さんには、また「歌う」ことの大切さも教わりました。
MONDAYの合宿の時でした。
譜面をよみながら、叩いていたところ、曲の途中でその譜面が突然消えてしまいました。脇で見ていた中村さんが譜面を隠してしまったのです。
中村さん曰く「おまえは譜面をみながら叩くともたる。譜面にたよっちゃだめだ!細かいフィルはいいから、バンド全体を聞いて、歌うようにしろ。俺は大体3回演奏すれば、譜面を見ないで演奏するよ」と言われました。それ以来、なるべく譜面を見ないように心掛けています。ベイシー楽団のソニー・ペインにしても、ブッチ・マイルスにしてもみんな譜面は見ないで演奏しています。その分、他のパートを聞いて、バンドをスィングさせています。
中村さんはその後、シャープスをやめ、単身アメリカに渡ってサイド向こうの指導者にレッスンを受け、コンボの世界に現在はいますが、常に自分をふるいたたせておくことを大切にされている方です。そして私は中村さんにいろんな面で可愛がっていただきました。中村さんのドラムに対する姿勢を学んだおかげで、今の自分があるように思います。

《憧れのドラマー Jeff Hamilton》
ジェフとの出会いは、ベースの長島さんにレイ・ブラウントリオのビデオを貸していただいたことから始まります。
当時のレイ・ブラウントリオは、ピアノにかつて「スリー・サウンズ」のピアニスト ジーン・ハリス そしてジェフ・ハミルトンのドラムでした。借りたビデオは「コンコード・ジャズ・イン・ジャパン」のビデオでした。「チュニジアの夜」では彼のロングソロ、それも手だけの演奏、いわゆるハンド・ドラミングによる演奏でした。両手をパーカッションのように使う奏法、指輪でシンバルを鳴らしたり、とトリッキーな奏法を駆使しているようで、音楽的にしっかりしたものを感じる演奏でした。
そのドラムに対する姿勢に、完全に「knock me out」されてしまいました。それから、彼のCDを集め始めました。
そして運命の日がやってきました。
1996年7月7日、彼との出会いはまさに「七夕の日」でした。
それは、毎年「川崎市民プラザ」での「ビッグバンド・シンポジウム」でした。「クレイトンーハミルトン・ジャズ・オーケストラ」がそこにゲストで招かれていたのでした。
朝、彼を「川崎市民プラザ」の入り口で出迎えました。しかし、そこには仏頂顔したジェフがいました。何を話しかけても反応してくれない彼に、私は大きな不安を覚えました。しかし、前日に書いておいた手紙と1994年に録音したマンデイのCDをプレゼントしてから、彼の私に対する態度がガラッと変化したのです。
手紙を読んだ彼は、私が彼に特別な意識を持っていることを理解してくれました。それから、彼はいろいろなことを教えてくれました。私も彼のドラムのセットアップを手伝ったりし、また彼も私を食事に誘ってくれたりしました。そして嬉しかったのは、年齢も私とほぼ同年代だったということです。彼は1953年8月4日生まれでした。
それから1、2年たって、彼から突然、メールをもらいました。びっくりしたのと同時にとても嬉しくて家族全員をコンピュータの前に呼び寄せたほどです。実は、あとで知ったのですが、その時、彼は肘を手術するため入院をしていたのですが、入院中に自分の名前でインターネットを検索していたそうです。検索をしていたら、マンディのホームページにあたり、自分の名前が私のプロフィール欄に載っていたため、私を探しあてることができたそうです。それから、彼とのつきあいが始まりました。
2年前にテナーサックスのハリー・アレンのバンドで来日した時には、ひょんなことから彼のドラムセットを預かることになりました。勿論、預かるだけでなく、彼が使わないときは使ってもよい、というお許しももらったのです。このことは今でも彼に感謝しています。自分の大切な楽器を託する分、彼は私のことを信頼してくれているからです。
今年の11月に来日した時は、思いもかけず、彼からプレゼントをもらいました。自分の楽器を大切に預かってくれている、という理由からです。感激して思わず、人目もはばからず、泣いてしまいました。プレゼントしてくれたのは、彼が日頃コレクションしている、ハミルトン社製の腕時計でした。今や私の宝物です。

《コンボを教えていただいた幡野謙司さん》
私が勤める協会のボランティアの女性に、私が住む横浜線の中山駅近くにジャズのライブハウス「レフトホース」があることを教えてもらったのは、今から5年ぐらい前でした。
毎月第2日曜日にアマチュアによるジャムセッションがあると聞き、ある日、そこを訪れました。
多少の自信はあったものの少々、不安もありました。
しかし、入ってみて、結構上手なドラマーが結構多いい事に気付き、また新たな挑戦が始まりました。
コンボは、大学の軽音楽部に入って2年ほど経験しましたが、全く知らないアマチュアのミュージシャンと演奏することは未知の経験でしたし、たった2年間のキャリアはゼロに等しいものでした。最初の2年間は欠席することなく、ジャムセッションに参加しました。また、同じ店でやっている土曜日のライブにも客として顔を出すようになりました。
そこで今もお世話になっているのが、ベースの幡野謙司さんです。幡野さんはライブのブッキング、そして演奏と「レフトホース」のライブの一切を仕切っている方です。幡野さんのお陰で、コンボについてはいろいろとアドバイスをいただきました。
3年目からは、レギュラーではないにしろ、プロと演奏する機会も与えていただきました。バイブの出口辰治さん、シャープスのギター岩見淳三さん、ピアノの袴塚淳さん、ボーカルの広瀬麻美さんなどです。今もライブに行くと必ず演奏させてもらっています。
また、ジャムセッションの仲間である、ピアノの寺尾篤さんからも誘いがあって、毎月第3金曜日の夜には、田園都市線「江田」駅近くの「ブルームーン」というライブハウスにもピアノトリオと女性ボーカルの編成でレギュラー出演しています。ここのボーカルの山ノ内美和さんも結構うまい歌手で、歌伴が好きな私にとっては最高のバンドです。ただし、毎回、簡単な打ち合わせだけでリハーサルなしのぶっつけ本番ですので、とてもスリルがあります。どんな展開になるのか、予想がつかないだけに、周りの音を聞いて4人でしっかり曲を作っていくことを心がけていますが、コンボの難しさ、そして楽しさをいつも味わっています。ちょっとビッグバンドにはない味ですね。
レフトホースでのライブでは音楽的なひらめきやヒントを一杯もらっています。現在、マンデイで演奏している「マイ・ロマンス」をバラードで歌うアイデアも広瀬麻美さんのバックをつとめた経験から、提案した曲です。また、これから挑戦する、コルトレーンの名曲「モーメント・ノーティス」もレフトホースのライブで知った曲です。

《憧れの音楽家 市川秀男さん》
私が大学に入ってはやっていた日本のグループに、ドラムのジョージ大塚さんのトリオがありました。
そこのピアニストが市川秀男さんでした。
大学生の時、銀座のライブハウス「ジャンク」にこのトリオを聞きにいきました。市川さんはちょうどアフロヘアーで、ガリガリの体でしたが、まるでハービー・ハンコックのような出で立ちでした。休憩時間にトイレで隣り合わせになりましたが、20年後に一緒に演奏できるなんて思っても見ませんでした。
市川さんに再会したのは、マンディが安曇野のジャズ祭に出演した時でした。市川さんがアレンジした「水祭り」という曲を子供たちのお囃子と一緒に演奏しました。あのピアノの名手、市川さんと一緒に演奏できる、ということで感激したことを覚えています。
数年してマンディのリサイタルそして新宿「J」のライブのゲストとしてまたご一緒しました。聞きにこられていた、アルトサックスの佐藤秀也さんからは休憩時間に「もっと遊んでもらえよ!」と言われましたが、とにかくついていくだけで必死でした。でも、「マイルストーン」などの曲を一緒に演奏していると、とても気持ちよく演奏させてくれます。
今年から、市川さんからのお誘いもあって2ヶ月に1度、ご自宅でレッスンをしていただいています。1、2時間程度のレッスンですが、市川さん自らピアノをひいていただいてのレッスンで、もう有り難い限りです。
先日も横浜の「エアジン」のライブにお邪魔したら、「レッスンの成果を発揮して、次のステージ、タイコ叩かない?」と言われましたが、恐れ多くて丁重にお断りしました。

《ジャズマン交友録》
我が家の近くに「レフトホース」というライブハウスがあります。大概、土曜日の夜はそこにライブを聞きにいっています。聞くだけではなく、行けば2、3曲、叩かせてもらうことがほとんどです。
レギュラードラマーの津田俊司さんは、国立音大の打楽器科を卒業された元プロドラマーです。私の兄貴みたいな人でいろいろとドラムに関してはアドバイスをくださいますし、ライブが終わったあとはいつも下ネタ大会です。「フェラ○オ・サンダース」とか「しばた はつみみ」といった下ネタのだじゃれで楽しませてくれます。
下ネタといえば、時々出演するピアノの北島直樹さんもエッチな話題では、いつも中心的な存在です。ボーカルの阿川泰子さんのバックバンドのコンサートマスターだっただけに、ピアノのセンスも最高ですが、エッチな話題も最高です。
最近は、市川秀男さんの弟子の女流ピアニスト、福井友美さんとも親しくさせていただいています。山岸笙子さんもすてきで、色っぽいピアニストです。
ドラムの渡辺毅さん、通称サバオさんも親しくしてもらっているプロドラマーです。サバオさんは17年間、クラリネットの北村英治さんのバンドのレギュラーをつとめられた方です。いつもドラムについていろいろと情報交換しています。

《妻そして子どもたちへ》
妻とは、横浜の関内駅そばにあった「砂時計」という、いつもジャズがかかっている喫茶店で知り合いました。彼女はそこでアルバイトをしている勤労学生でした。ちょうど20歳でした。私は当時30歳でした。ひょんなことから、彼女と結婚して17年たちました。
好きなドラムを続けてこられたのも、妻の理解と支えがあってこそと思います。学生時代から欲しくてたまらなかった、グレッチのドラムセット(60万円)を買うことを打ち明けた時も気持ちよく賛成してくれました。
彼女の精神的な支えがあってこそ今の自分があると思います。
子供も中学2年の男の子と小学校5年生の女の子ですが、毎年マンディのリサイタルでは受付を手伝ってくれます。
家族の理解と支えこそ、安心してマンディの活動、そしてドラムに打ち込める環境でもあると言えます。

《これからの私のドラム人生》
ドラムをやるからには、死ぬまでタイコを叩き続けていきたいと思っていますし、単なる慰みではなく、自分の音を極めるまで精進していきたいと思います。
幸い、私の周りには、ジェフ・ハミルトン、市川秀男さん、中村吉夫さん、そしてマンディの指導者である、横山均さんなど、私のタイコ人生を暖かく見舞ってくれている人々がいます。そんな人々をこれからも大切にしながら、少しでも技術や音楽性を磨いていきたいと思っています。

今年、マンディは30周年。30周年の節目にまたレコーディングをしますが、成長した音が出せるよう、これからも頑張っていきたいと思います。幸い、井上英果さんという魅力的なピアニストを得、躍動感のあるリズムセクションになりつつあるだけに、今年のレコーディングは本当に楽しみです。
勿論、ビッグバンドだけではなく、コンボでの活動にも力を入れていきたいと思います。楽器も新調すべく、現在、自分の考えている音に近い楽器をさがしているところです。
マンディを愛してくださる皆さんの暖かいご支援をこれからもお願いいたします。

以上 本人 筆

陰の声: ・・・ア、終わりましたか? イヤイヤ、ここまで熱く語って頂けるとは思っていませんでしたが、
「平野嘉昭のタイコ人生」・・・濃かったです。
平野さんとの付き合いも、気がつけば30年ということですね。お互いにまさかこんな事になる
なんてねぇ。
あと30年続ければ?もうちょっとタイミングも合うかもしれませんよね。ということで、これからも
宜しくお願いします。

さて、「歌うスタジオ予約係」Vocal 山本初枝です。
以降、新メンバーの細字慶一・江村幸博、長島輝雄と続きます。
お楽しみに。
 

(4) 2003年間スケジュール:(練習の日程はとりあえず3月まで)

 

1月

 

メルマガ:
4日
メールマガジン第20号配信:宛先=515名様
練習:

20日・27日

初台NOAH
新年総会:
18日
渋谷区大向区民館
イベント:

31日

朝日ホール 洋服組合ファッションショー

2月

練習:

3日・10日・17日・24日

場所未定
3月
練習:

3日・10日・17日・24日・31日

場所未定
5月
イベント:

中旬?

都内某ライブハウス ライブ予定

7月

イベント:

6日

川崎市民プラザ JABA七夕コンサート

13日

セシオン杉並 第24回都連コンサート

9月

CD録音予定:

20日〜21日?

録音スタジオ未定
11月
イベント:

29日

新橋ヤクルトホール 第30回MJOリサイタル

12月

イベント:

23日

昼=小平澄水園 クリスマス会
夜=八王子なか安 住宅工営パーティー

 

(5) 皆さんからの声:昨年のリサイタルのアンケートから

 
11/30 新橋ヤクルトホールでの「第29回リサイタル」にお越し頂いた皆さんありがとうございました。
当日戴きましたアンケートから抜粋したコメントを幾つかご紹介いたします。

トークあり、ゲストあり、飽きのこないプログラムでした (20代女性)
皆さんの努力が見えてとても良かった。時間が短く感じた (60代女性)
時々楽しいおしゃべりが入り楽しい時を過ごせました (40代)
演奏は最高。紹介が長い (40代男性)
終わり方、特に良かった (50代)
司会「エ〜」が多すぎる。ブラスセクションの歯切れ良さが非常に良かった (60代男性)
もっとノッて吹けばいいのに・・・みんなカタい!! (20代)
さすが高橋達也さんが出ると皆さん良い緊張感がありノリが良く最高 (60代女性)
大変良かった。最高です。ゲストが入ってから音が変わりました (50代男性)
アップテンポの曲がもっと欲しい! グレンミラーの曲もたくさんやって欲しい!ベースの方のトーク&演奏はとても良かった!!最高!! (20代女性)
初めて拝見したのですが、アマチュアとは思えない程素晴らしかった (30代女性)

アンケートご協力ありがとうございました。
その他の辛口コメント等、皆さんのご意見を今後の参考に致します。
 

(6) お願い:イヤなら言ってね

 
次回以降の配信を希望されない方は、お手数ですが長島宛にEーMailでご連絡下さい。ご連絡のない場合は、メーリングリストにそのまま登録を残させて頂きますので、ご了承の程お願いいたします。
 

(7) おまけ:パソコン年賀状全盛ですね

 
毎年11月ころから書店に年賀状用のデザイン集が出回ります。
今年は特に、年々増えるパソコン年賀状対応のデザイン集が非常に多かったですね。
私は22年ほど、毎年版画の年賀状を出しているので、この時期書店の年賀状コーナーを見ることが多いのですが、今年はついに今まで良く買っていた版画のデザイン集が絶版となってしまったようです。

12支の版画は既に彫ってあるので、最近は色付けして摺るだけなのですが、表書きや裏書の俳句をパソコンで印刷し、週末に集中的に摺っても2−3週間はたっぷりかかってしまいます。

何でこんなに時間をかけて・・・と自分でも思うのですが、たま〜に頂く「版画と俳句の賀状を楽しみにしています」なんてお世辞を真に受けて、まぁ続けられる限りは続けようかなぁと思っています。

「福ひつじ摺り上げやっと御慶かな」

第20号も最後までお読みいただきまして、有難うございます。
今後とも宜しくお願いいたします。

発行責任者:長島 輝雄